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百済は大和の父か
( 来源:  发布日期:2012-01-20 阅读:535次)
皇室の正月行事に歌会始がある。和歌がハレの儀式に使われた時代の名残だろう。  和歌の起源については、高校の古文で習う「古今和歌集仮名序」が有名だ。作者の紀貫之は「難波(なにわ)津(づ)の歌」と「安積(あさか)山(やま)の歌」を「うたのちちはは」だという。  「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」--仁徳天皇が、かつて弟と東宮位を譲りあった時に、王仁(わに)がこの歌を献じて即位を勧めたとされる。  さて、王仁は百済の人である。漢字を伝えるために論語や千字文をたずさえて渡来した。百済から来て、いきなりやまと歌の父になれるか。  来日して日本語を学び芥川賞を受賞した中国人作家、楊逸(ヤンイー)さんのような例もあるが、王仁は日本語を学びに来日したのではない。漢字を教えにきた人なのだ。  この疑問に、韓国・檀国大特別教授、金容雲氏はこう答える。王仁が渡来した5世紀のころ、日本語は百済語とほぼ同じだったのだと。(「日本語の正体-倭の大王は百済語で話す」三五館)。わかりやすいが、そうなのか。  近年、滋賀県の紫香楽(しがらき)宮跡など全国で木簡が多数発掘されている。そのなかに韻文を書いたものが数十点あり、「歌木簡」と呼ばれる。歌木簡は、難波津の歌が圧倒的に多い。  犬飼隆著「木簡から探る和歌の起源-『難波津の歌』がうたわれ書かれた時代」(笠間書院)によると、難波津の歌木簡は全国に分布している。つまり、地方の役所の儀式で使われたらしい。  さらに特異なのは、難波津の歌木簡は、1音1漢字、合計31文字の万葉仮名で書かれている。「ナニハ」は「難波」ではなく「奈迩波」と書く。訓読みしない。  犬飼氏は、古代の役所の祝賀の儀式では、会場の前方に難波津の歌木簡を置き、これを見て参列者がうたったと推理している。  難波津の歌は、王仁の創作歌ではない。文字のない時代から歌いつがれてきた祝祭歌謡だという。歌謡は、漢字の伝来によって音声のほかに文字という形態を得て、記録や再生が可能になった。歌木簡はICレコーダーの祖先だ。  紀貫之がいった「やまとうたのちちはは」とは、和歌の音声ではなく、文字という形態についての起源だったのだ。そう理解すれば、百済人の王仁がやまとうたの父であって不思議はない。  犬飼氏によると初期の歌木簡の中には、「ハ」を「波」ではなく「彼」と書いたものがある。誤記ではなく古韓音だという。和歌の源流、歌木簡に百済人が関与していたことは明らかだ。(専門編集委員) 毎日新聞 2011年1月6日 東京朝刊
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