幻の「宮殿白壁」か、前期難波宮跡で大量の壁土 大阪 |
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发布日期:2012-01-20 阅读:次) |
大阪市中央区の前期難波宮(なにわのみや=7世紀後半)跡で、深さ6メートルの谷跡から焼けた大量の壁土が出土したと13日、市教委と市博物館協会が発表した。格式の高い建物に使われたとみられる白壁も含まれ、686年の火事で焼けた宮殿の壁材の可能性が高い。古代宮殿の壁材は藤原京や平城宮でも未確認で、市教委は「飛鳥時代の宮殿が大陸式の本格的な建築だったことを裏付ける画期的な資料」としている。
大量の壁土は、大阪城の南側にある旧府立青少年会館の跡地(中央区森ノ宮2丁目)約4千平方メートルのうち約3200平方メートルを発掘調査して見つかった。谷の斜面に50~70センチの層をなして壁土が堆積(たいせき)。他に宮殿の石敷き舗装用とみられる平らな面のある長方形の榛原石(はいばらいし)なども含まれていた。
壁土は大半が数十センチ大のかたまり。熱を受けて赤く変色したり、硬くなったりしていることから、火災で焼け落ちたものらしい。中には、荒塗り、下塗り、上塗りを重ねた後、表面に白土あるいは漆喰(しっくい)を白く塗った丁寧なつくりの壁土が含まれていた。白壁は宮殿の中でも特に格式の高い内裏(天皇の住まい)など中枢部の壁材とみられる。
「日本書紀」には686年、「乙卯(おつう)の酉(とり)の時に難波の大蔵省に失火し、宮室ことごとく焚(や)けぬ」とある。前期難波宮跡では、これまで建物の柱穴の底に残る焼土が発見されていたが、焼けた建築材が確認されたのは初めて。壁材は通常、時とともに土に戻ってしまうが、今回見つかった壁材は焼かれて硬くなっており、宮殿東端にあった谷にまとめて捨てられたため、奇跡的に残ったらしい。
この谷からは当時の土器や鴟尾(しび)を含む瓦、さらに前期難波宮の下層からは飛鳥時代前期の「素弁蓮華(れんげ)文軒丸(のきまる)瓦」や舟形木製品などもまとまって出土した。
奈良文化財研究所の箱崎和久・遺構研究室長(建築史)は「白壁は何層にも塗り重ねた精巧なつくり。少なくとも4種類、宮殿中枢とみられる建物の壁土が確認できる。古代宮殿などの建物の壁土としてはおそらく最古だろう」と話している。
説明会は、16日午前10時~正午、大阪市中央区森ノ宮中央2丁目の現地で。小雨決行。当日の問い合わせは06・6943・6836へ。(大脇和明)
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